昭和五十七年三月十一日 朝の御理解
x御理解第九十二節
神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けられたけれど、ここではおかげを受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬぞ。早く起きるのと遅く起きるのとは、氏子が参拝の早い遅いにかかわるぞ。
昨日研修の時に話した事でございましたが、昨日は梅山先生が正奉仕でございました。梅山先生が正奉仕の時には、いつも私はそう思うとったんですけれども、結局これが本当だと思うから本当なことをやってのけるわけ何ですけれども、その本当もやはり、本当なものになっていかなければいけんのですよね。
自分のこれが本当だと思うておることが、より本当な事へとこう本当から本当を求めていくということなんです。というのは梅山先生が此処で修行生代表で正奉仕がお届けを致します。そん時に必ず「親先生、おはようございます」これが一番口なんです。皆さんどうでしょうか。
私はそれにいつも返事に困る。困るというが勿論返事を致しません。なら梅山先生が「おはようございます」というから、「ああ、おはよう」とこちらが普通ならいうところでしょうけれども、これは取次者の権威、といったようなものではありません。
願う方の側がやはり金光大神のお取次を頂く。というのですから、そこに何か友達のようになるでしょう。一番それこそ一番大事な一番初めのお取次をね、正奉仕の先生方が願いますよね、そん時に此処へ座って開口一番、「親先生おはようございます」さ、本当にそれが本当のようであって、実際は神様にいわゆる金光大神に今から、お取次を頂くということになれば、それこそ早朝から御神勤有り難うございます、とか何かそういう、こちらが返事せんで済むような私は表現でなからなきゃいけないのじゃないだろうかね、と言うて話した事でございましすが皆さんどうでしょうか。
守り守りの力でと言うおっしゃるが、守り守りの力もさることながら、それを頂く方の側の信者の皆さんのいうなら、取次者に対する頂き方、と言うのも又、問題になると思うですね。
昨日大分から夫婦で、ま、自分の願いがあるときだけ参ってみえる方があります。昨日は夫婦揃うて参ってみえました。息子さんがあの足をどうか切断せんならん、というような病気にかかられた。
そこですぐ、ま、御願いにみえて三、四日前に御礼に出てみえた時には、おかげで切断せんでただ手術だけですみそうです、というのです。あ、おかげ頂いた。 で昨日は夫婦揃うてまあ、御願いにみえたわけですけれども、まあいうならば切断せんならんのが手術だけでいいと、こういうことになった。
そこで今度又、出来るならば、手術もせんでおかげ頂けるようなおかげを頂剣でしょうかというのである。で私が申しました。
お医者にかかったらね、お医者さんが言われることを親先生が言われる事と思いなさい、と私は申しました。奥さんは初めてと思ったら、二回目だったそうですけれども、それを頂かれて、もう、非常に金光様の信心が有り難いと言うことが分かった。と言う意味の事を言われるんですよ、ね、本当にそこにね、例えばね、お医者にかかったら、医者の言うとおりにしなければいけない、もう医者が神様なんだ。
そいで又、その方にはね、成る程切断せんならんのが、切断せんですむようになった、手術だけでよかごとなった。なら又御願いに、ならその手術もせんでするようなおかげも頂きたい。こりゃ、もう親の情としてま、頂けるもんならそう頂きたい。
だから手術をせんとかするとかなくて、ね、そのお医者さんが、言われるなら、お医者さんが言われることを親先生が言われることと頂かれたら腹が決まる。根、そこに又一心も立つ。と言うようなお取次をさして頂いた事でしたけれどもね、例えば取次者の権威と言ったような意味でなくて、取次者の一言で言うならばおかげが決まってくる、頂き方ひとつで、ね。
そこでなら、これは決して梅山先生が私を友達のごと思うとるけん、そげなごつ言うと言うことは決してありません。自分としては、それが本当だ、いわゆる五十人の修行生がおる中で、自分だけは本当なことをしておると言うつもりはあったでしょうね。これは必ずです。親先生おはようございます、とこういうわけ、そして次のお取次をこう願われる。だからこれに・・・よくまあそれがね、御信者さん方から電話やらかかってまいりますと、ね、ま、いろいろなのがあります。ね。
そいでやっぱり朝であるならば、親先生おはようございます。とこう言うようなで、あ、おはようございます。それには応えられるけれどもね。修行生の先生方がここで一番にお届けするときのね、おはようございますと言われても、私はおはようございますと返して言われない。
何故かと、そこにはもう同等なものになってくるんです。それではおかげにならんのです。ね。親先生の言われたことをね、言うならば神様が言われたことして、皆さんが頂くと言うところに、お取次の働きというか、ねおかげを受けられることは皆さんもご承知の通りでしょうけれども、なら、これがまだ、病院の先生、病院にかかったら私は昨日申します。病院の先生が言われることを親先生が言われることと思うたら、心に安心してお医者さんに任せられる。その任せられる心の状態を頂くためには、やっぱりおはようございますじゃいかんごとあるね、と言うような事でございました。
今日私は御心眼に、z”柿が熟しになって、もう落ちそうにしておるような”ところを御心眼に頂いたですけれども、ね、私共人間の一生というものが、ね、やはり、花から実、ね、柿の実がなってその実がいわば熟しになって落ちていく、というかね、ま、そこから私は思ったんですけども、信心のある者はそれをただ放任せずに、まず自分のいうなら心ひとつで人間が幸福になれれる事実を分からせて頂いたら、その手だてとしてです、ね、それこそ皮をむかれて吊されてね、え、何とかだった。渋が段々抜けるに従って甘くなるぞえといったような御理解頂いたことがありますよね。
問題は皮をむかれたり吊されたりと言うときには、きつい時なんですけれども、そのきつい時が一番人間の大事なときな、と言うことなんです。
難儀を感ずる時ほど人間の一番大事な時なんです。いうならばいよいよ今こそ皮をむかれておる時であり、渋いものがいうならば甘くなっていきつつある時であると思うてね、そこを大切にする生き方ね、そういう生き方から、あのいわば日柿というですか、干し柿ね、いつまでおいても悪くならないね、ただ一生を飲んで食うてチョイで終わっていく人、あの世には何も持っていこうにも持っていきようのない人がたくさんある中に、信心させて頂く者は、信心して信心の徳をね、此の世にも残してもらうのであり、又信心の修行をさして頂くのである。その皮をむかれる時に吊されておる時に私は本当に信心の、いわゆるま、あの神髄というかね、神様のお心というか、神愛というか、それが分からして頂くおかげを頂いて、初めてそれが徳になるのだ、と言うことであります。
これは守り守りの力でね、神様は一体なんだ、けれどもその頂き方でおかげが変わってくるというのです。ね。
成る程先生がそりゃ、友達のようにおつきあいする、それがいけないという。こりゃ私がなら威張るわけでもなからんければ、取次者としての権威を保つために皆にこういう、と言うじゃなくてですね。そこにいよいよより本当な事がわかっていく。そして成る程いうならば親先生は神様じゃなぁと言えるようなおかげを各々が頂かなければいけないという事何です。ね。
そこには私共の心の状態が段々開けてくるに従って、その頂き方が違ってくる。受け方が違ってくるね、皮をむかれて吊されてという時でも、ね、それこそ神愛有り難し、神願有り難しとして受けていくことができて、それが日柿ともなったときに、初めてあの皮をむかれて吊されておる時にこそ、本当なことがわかってきたんだ。人間のいうならば渋が抜けたときなんだ。抜けていくときなのだ。
として御礼を申し上げて、それがあの世にもつながりね、此の世にもつながっていけれるようなおかげを頂く事のために、お互い信心を頂いておるとですから、ここでは、ま、取次者に下さってある、こりゃ御理解だと思いますけれどもね、守り守りの力とおしゃる力とは何か、ね。勿論神様を信ずる力なのですけれども、ま今日のお話の中から、各々そこのところをね、頂いて親先生が自分にとって親先生とは何かとあくな質問をよく致しますね。
そりゃやっぱ人間でしょうもん。あ、人間どこやなか。けどもそこにね、信心のいうならば深まっていく、進んでいくに従ってです、その人間ならここでいうなら、人間大坪がですね、いうならば神様のようにも見えてき、神様のお言葉として頂くことも出来るようになる。
それは各々の信心からだと思うのです。ね、それが私はこりゃ守り守りの力であると同時に信者一人一人の力になっていく。ということはそういう事だと思う。 今こそ吊されておる時だろうと。今こそ渋が抜けておる時だろうと、いう素晴らしいチャンスに恵まれながらね、日に当たることをいとうたり、吊されておる事をいとうたりしたんでは、いうならどういう事になりましょうかね。
本当の日柿、本当のいつまでおいても悪くならんお徳になりそこなってしまうですね。
私共の信心の力いかんによってね、神様は一体なのだ、同じなのだけども、おなじではない。いよいよ尊い有り難い神様にしていくということが、私は御道の信心だという風に思います。 どうぞ